淡路島の気になる所(人物)

皆さんこんにちは、歴史関係ブログ担当の長尾です。
今回も淡路島の気になる所(人物)について書かせていただきます。
今回ご紹介する人物は、菅 達長(かん みちなが)という、「淡路国十人衆」の一人です。
「淡路国十人衆」について調べて見と、あまりはっきりした記述が見つかりませんでしたので、今後の課題で調べたいと思います。
では早速、行ってみましょう。

明石海峡大橋.jpg

 達長の本拠地なのですが志知・釜口・岩屋・須本(洲本)などがあるようで、有力なのは岩屋城らしいのですが、1576年に足利嘉昭を擁した毛利輝元の軍勢が淡路島の岩屋城を攻撃したという史実が残っていることから、岩屋城が一番有力かなと勝手に思っています。
 当時、淡路島は毛利と織田の勢力がぶつかる狭間の重要拠点にあっ他のですが結局、守備していた安宅信康は敗れ、城は毛利方に取られ、淡路の国衆の中で達長だけが、毛利方についてしまったそうです。
ただ、そのことで毛利側の武将としてまた岩屋城の城主になったんですが・・・
 しかし、1581年に羽柴秀吉が淡路島に攻め入ってきて、わずか1日で岩や城は落城してしまいます。
この時、淡路の国衆はことごとく滅ぼされてしまうのですが、達長だけは難を逃れたそうです。
 本能寺の変で信長が死んだ後、達長は手勢を率いて千石秀久が居城していた、洲本城を奪うのですが、すぐに奪い返されてしまいます。その後達長は長宗我部家の与力になるんですが、結局1584年秀吉に降伏し秀吉の元で水軍を率い、文禄・慶長の役などに出兵して功を上げました。
 豊臣政権下で伊予国に1万5千石を知行されたり、秀吉の死後遺品の長光の太刀を受領したりしていることから、関が原では西軍につくのですが、所領を没収されてしまいます。
 その後藤堂高虎の侍大将として仕えますが、大阪の陣の際、大阪城の堀を埋めることで高虎と対立し、切腹させられてしまいます。
 しかし、達長が作り上げた水軍の術「菅流」は彼の三男によって代々伝えられて、今でも「菅流水軍要略」などが東京大学の駒場図書館に残されているそうです。
私もwebで閲覧しましたが、何が書いてあるのかまったくわかりませんでした。

それでは今回のブログはこの辺で失礼させていただきます。
また、次回のブログでお目にかかりましょう。
※写真は岩屋から望んだ明石海峡大橋です。