淡路島の気になる所

みなさんこんにちは、歴史関係ブログ担当の長尾です。
今回は庚午事変という、幕末に起こった事件について書いていきたいと思います。
さて、どんな事件だったのでしょうか?早速見ていきましょう。

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庚午事変(別名稲田騒動)とは一言で言えば、明治維新の際に阿波徳島藩の内部で起きた内輪もめで、徳島(阿波藩)にとってみれば、江戸期を通して阿波藩の領地であった淡路島がこの内輪もめのせいで結果的に今の兵庫県に移ったという事件です。詳しく解説してみましょう。
阿波藩の蜂須賀家というのは、もとをただせば尾張の豪族で、戦国末期に豊臣秀吉に仕えたことでとんとん拍子に出世して阿波の国と淡路の国2国を得ました。秀吉に使えた初代の蜂須賀小六正勝は(太閤記などでは盗賊の親分として日吉丸こと秀吉と矢作橋で出会うことになっていますが)生涯秀吉の側に仕えていたようで、その子である蜂須賀家政が阿波藩の藩祖となっています。
稲田家というのは戦国期この蜂須賀家と同格の盟友だった一族ですが、秀吉の配下に入るにあたり、指揮系統上蜂須賀の下にまわり、そのまま蜂須賀家が国持ちの大名になってからもその家老職に甘んじてきた家でした。そんな稲田家に対し蜂須賀家は、淡路の国1国と阿波国内の美馬郡を領地に与えるという最大の待遇で遇しており、平和な時代はそれでこともなく過ぎていました。
ただ稲田の家来は、蜂須賀の家来と違って、蜂須賀の家来の家来ということで差別を受けていたようで、その不満は蓄積されていたようです。
実際、徳島本藩の家臣は士族とされましたが、稲田氏の家臣は卒族とされた事に稲田氏の家臣は納得できず、自分達の士族編入を徳島本藩に訴えかけた。それが叶わないとなると自分達が士族になるために、洲本を中心に淡路を徳島本藩から分藩独立させて稲田氏を藩主とする稲田藩(洲本藩)の設立を目指すようになり、明治新政府にも独立を働きかけていくようになりました。
このことで稲田側は幕末時の活躍によりすぐ認められると思っていたようです。
こういう状況にさらに火をつけることになったのが明治維新の動乱でした。
幕末維新の動乱期に、時勢を読む眼もなく確固たる藩の姿勢もなかった阿波蜂須賀藩は様子をみて勝ちそうな側につこうとしました。

さて、そんな蜂須賀家にたいして稲田家、また両家に対して当時の政府は
どのような捌きを下すのか、次回のブログをお楽しみに。
それではまた次回のブログでお目にかかります。