淡路島の気になる所

皆さんこんにちは、歴史関係ブログ担当の長尾です。
今回は前回に引き続き、「庚午事変」という事件についてです。
さて、どのような展開になっていくのでしょうか。
では早速行ってみましょう。

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 幕末の動乱期に勝ちそうな側につこうとしていた蜂須賀家に反して、稲田家だけが鳥羽伏見の戦いの際いち早く軍勢を薩長軍側に送り込み倒幕を鮮明にして名をあげました。
 この稲田家の行動は阿波藩内にあっては藩の家老職にありながら藩の方針に従わなかったということで蜂須賀家の家臣にとってはふとどき者たちだという感情を植え付けたようです。
 先にも言いましたとおり、稲田家は幕末の活躍により、認められて士族と認められると確信して明治の新政府に働きかけていた訳なんですが、そんな行動に腹を立ててキレてしまったのが蜂須賀家の家臣たちでありました。
 明治3年5月13日(1870年6月11日)一部の過激派藩士らが、洲本城下の稲田家とその藩士らの屋敷を襲撃してしまいます。またその前日には徳島でも稲田家の屋敷を焼き討ちし、脇町(現:美馬市)周辺にある稲田家の配地に進軍します。
 これに対し稲田側は一切無抵抗でいたと言われています。
またこれによる稲田側の被害は自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人。他に投獄監禁された者は300人余り、き払われた屋敷は25棟にものぼりました。
 大砲まで持ち出しての攻撃だったと言われているんですが、分藩も何も実際、翌年には廃藩置県で藩そのものが日本から消滅しているんですから、何でこんなことをしでかしてしまったのか私には訳がわかりません。それほどまでに稲田家に対する鬱憤が溜まっていたんでしょうか。
 これに対して政府は一部の過激派だけの単独暴動なのか、藩庁が裏で過激派を煽動していたりはしなかったか調査しました。
 少なくとも洲本では意図的に緊急の措置を怠った疑いがあったので、そのような事実が少しでもあれば容赦なく蜂須賀家当主の蜂須賀茂韶を知事から罷免する果ては阿波藩を取りつぶしてしまうつもりだったようです。
岩倉具視さんも相当ご立腹だったようですね。
 そんな日本政府はどのような裁きを下したんでしょうか。
それではまた次回のブログでお目にかかりましょう。