淡路島の気になる所

みなさんこんにちは、歴史関係ブログ担当の長尾です。
さて今回は「庚午事変」の3回め(最終回)です。
蜂須賀家の過激派藩士の行動にキレた岩倉具視さん(日本政府)はどんな裁定を両家に下していくんでしょうか。
さて早速見て行きましょう。
庚午事変.jpg
 当時の日本は版籍奉還後も藩主が藩知事となっているだけで、旧体制と何ら変わらない状態だったので、中央集権化を推進していくうえで、この問題は是非とも克服してゆかねばなりませんでした。
 でも下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねないので、政府は慎重な対応を余儀なくされました。
 結果、襲った蜂須賀家側は首謀者10人が切腹、20数人が八丈島への島流しとなり、襲われた稲田側はかねてより望んでいた家臣の士族としての身分は認められたものの、北海道静内郡と色丹島への移住開拓を命じられました。
 尚、移住に関して言えば稲田騒動の前から明治政府により申し付けられていたことらしいです。
何か、最初から両家が仲の悪かったのがバレバレで、この事件を境に仲の悪い者同士は遠いところに離してしまおうという政府の意図が見え見えな気がしてなりません。
なので、この「庚午事変」は政府にとっては「渡りに船」のような気がします。
 稲田家藩士たちが開拓した、今日名馬の産地として有名な静内の丘の上には開拓100年を記念して彼らの苦闘を語る大きい記念碑が建てられています。
 この静内移住開拓については船山馨さんの小説『お登勢』や、2005年1月に公開された映画『北の零年』でも描かれていますので、興味を持たれた方はご覧になってみてください。
 また洲本市立淡路文化史料館では、「庚午事変」のコーナーが常設展示されていて、事件当時の事を綴った稲田家家臣の手記なども展示されています。
 とまあ、庚午事変については以上なのですが、今回の庚午事変について書いてみて自分なりに感じたことは、時代の流れに乗っていけず、先見の明を持っていなかったリーダーを持ってしまった人たちの「哀れさ」みたいなものを感じるとともに、争いは何も生み出さないんだなと言うことを改めて思い知らされた様な気がします。

 全世界の平和を心からお祈りして今回のブログを終わらせていただきます。
それでは皆様、また次回のブログでお目にかかりましょう。

次回は岩田康郎という人物について書いてみたいと思っています。