洲本市の神社

皆さんこんにちは、歴史関係ブログ担当の長尾です。
ちょっとフライング気味なんですが、アップさせていただきます。
前回は、洲本八幡神社を紹介させていただきましたが、今回はその八幡神社の周りにある、少し小さめの神社を回ってみましょう。
書ききれなかったら、次回パート2と言うことで、では早速。

十二支神社.jpg

まずは、八幡神社のすぐ裏側にあります「國瑞護国神社(くにみずひこ ごこくじんじゃ)」と読みます。
祭神は蜂須賀家政・蜂須賀茂昭、戦後は洲本市の戦死者も祭られています。
こんな書き方をしてよいのかどうかわかりませんが、靖国神社の洲本支店?みたいな捉え方を私はしています。
前回ご紹介した、金天閣のすぐ裏手です。
 次は、「八王子神社」です。
八王子神社は三熊山の頂上付近にある神社です。
祭神は観光案内のwebページには、「蛇の神様」になっていますが、私が調べたところでは、「国狭鎚尊(くにさつちのみこと)」(土に植物(主に稲)を植える神様らしいです)・「大山積尊(おおやまつみのみこと)」この神様についてはあまり記述がなく詳しくかけませんが、調べたところでは、スサノオノミコトの奥さんであるクシナダヒメの人間で言えば、おじいさんにあたる神様だそうです。
この八王子神社から、天守閣に向けて上ると十二支神社というのが並んでいます。
十二支に各神様を割り当てて(失礼な言い方ですね)あります。
それぞれを、下に書き出してみます。
子→伊勢大明神 丑→八幡大菩薩 寅→賀茂大明神 卯→松尾大明神 辰→大原大明神 巳→春日大明神
午→平野大明神 未→大比叡大明神 申→小比叡大明神 酉→聖真子大明神 戌→住吉大明神 亥→諏訪大明神
というふうになっているんですが、子、丑、寅、巳、戌、亥の神様は皆さんおなじみだと思うんですが、
卯、辰、午、未、申、酉の神様はあまり聞いたことがないのでは?
と思い調べてみました。
松尾大明神→大山咋神 大原大明神→タケミカヅチノミコト 平野大明神→スメオオカミ 大比叡大明神→オオナムチノカミ 小比叡大明→オオヤマクイノカミ 聖真子大明神→阿弥陀如来 となっています。
お一人だけ阿弥陀様が入っておられるのが気になる方もいらっしゃるでしょうが、昔の神仏習合の名残なんでしょうか。
各々の神様については、またの機会に「番外編」みたいな形で紹介させていただきます。
では、今回はこの辺で失礼させていただいて、続きは次回にとさせていただきます。
ではまた次回のブログでおめにかかります。

※写真は十二支神社です。

淡路島の気になる所

みなさんこんにちは、歴史関係ブログ担当の長尾です。
さて今回は「庚午事変」の3回め(最終回)です。
蜂須賀家の過激派藩士の行動にキレた岩倉具視さん(日本政府)はどんな裁定を両家に下していくんでしょうか。
さて早速見て行きましょう。
庚午事変.jpg
 当時の日本は版籍奉還後も藩主が藩知事となっているだけで、旧体制と何ら変わらない状態だったので、中央集権化を推進していくうえで、この問題は是非とも克服してゆかねばなりませんでした。
 でも下手な手の付け方をすれば、日本中に反政府の武装蜂起が起こりかねないので、政府は慎重な対応を余儀なくされました。
 結果、襲った蜂須賀家側は首謀者10人が切腹、20数人が八丈島への島流しとなり、襲われた稲田側はかねてより望んでいた家臣の士族としての身分は認められたものの、北海道静内郡と色丹島への移住開拓を命じられました。
 尚、移住に関して言えば稲田騒動の前から明治政府により申し付けられていたことらしいです。
何か、最初から両家が仲の悪かったのがバレバレで、この事件を境に仲の悪い者同士は遠いところに離してしまおうという政府の意図が見え見えな気がしてなりません。
なので、この「庚午事変」は政府にとっては「渡りに船」のような気がします。
 稲田家藩士たちが開拓した、今日名馬の産地として有名な静内の丘の上には開拓100年を記念して彼らの苦闘を語る大きい記念碑が建てられています。
 この静内移住開拓については船山馨さんの小説『お登勢』や、2005年1月に公開された映画『北の零年』でも描かれていますので、興味を持たれた方はご覧になってみてください。
 また洲本市立淡路文化史料館では、「庚午事変」のコーナーが常設展示されていて、事件当時の事を綴った稲田家家臣の手記なども展示されています。
 とまあ、庚午事変については以上なのですが、今回の庚午事変について書いてみて自分なりに感じたことは、時代の流れに乗っていけず、先見の明を持っていなかったリーダーを持ってしまった人たちの「哀れさ」みたいなものを感じるとともに、争いは何も生み出さないんだなと言うことを改めて思い知らされた様な気がします。

 全世界の平和を心からお祈りして今回のブログを終わらせていただきます。
それでは皆様、また次回のブログでお目にかかりましょう。

次回は岩田康郎という人物について書いてみたいと思っています。

淡路島の気になる所

皆さんこんにちは、歴史関係ブログ担当の長尾です。
今回は前回に引き続き、「庚午事変」という事件についてです。
さて、どのような展開になっていくのでしょうか。
では早速行ってみましょう。

岩倉具視.jpg

 幕末の動乱期に勝ちそうな側につこうとしていた蜂須賀家に反して、稲田家だけが鳥羽伏見の戦いの際いち早く軍勢を薩長軍側に送り込み倒幕を鮮明にして名をあげました。
 この稲田家の行動は阿波藩内にあっては藩の家老職にありながら藩の方針に従わなかったということで蜂須賀家の家臣にとってはふとどき者たちだという感情を植え付けたようです。
 先にも言いましたとおり、稲田家は幕末の活躍により、認められて士族と認められると確信して明治の新政府に働きかけていた訳なんですが、そんな行動に腹を立ててキレてしまったのが蜂須賀家の家臣たちでありました。
 明治3年5月13日(1870年6月11日)一部の過激派藩士らが、洲本城下の稲田家とその藩士らの屋敷を襲撃してしまいます。またその前日には徳島でも稲田家の屋敷を焼き討ちし、脇町(現:美馬市)周辺にある稲田家の配地に進軍します。
 これに対し稲田側は一切無抵抗でいたと言われています。
またこれによる稲田側の被害は自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人。他に投獄監禁された者は300人余り、き払われた屋敷は25棟にものぼりました。
 大砲まで持ち出しての攻撃だったと言われているんですが、分藩も何も実際、翌年には廃藩置県で藩そのものが日本から消滅しているんですから、何でこんなことをしでかしてしまったのか私には訳がわかりません。それほどまでに稲田家に対する鬱憤が溜まっていたんでしょうか。
 これに対して政府は一部の過激派だけの単独暴動なのか、藩庁が裏で過激派を煽動していたりはしなかったか調査しました。
 少なくとも洲本では意図的に緊急の措置を怠った疑いがあったので、そのような事実が少しでもあれば容赦なく蜂須賀家当主の蜂須賀茂韶を知事から罷免する果ては阿波藩を取りつぶしてしまうつもりだったようです。
岩倉具視さんも相当ご立腹だったようですね。
 そんな日本政府はどのような裁きを下したんでしょうか。
それではまた次回のブログでお目にかかりましょう。

淡路島の気になる所

みなさんこんにちは、歴史関係ブログ担当の長尾です。
今回は庚午事変という、幕末に起こった事件について書いていきたいと思います。
さて、どんな事件だったのでしょうか?早速見ていきましょう。

庚午事変.jpg

庚午事変(別名稲田騒動)とは一言で言えば、明治維新の際に阿波徳島藩の内部で起きた内輪もめで、徳島(阿波藩)にとってみれば、江戸期を通して阿波藩の領地であった淡路島がこの内輪もめのせいで結果的に今の兵庫県に移ったという事件です。詳しく解説してみましょう。
阿波藩の蜂須賀家というのは、もとをただせば尾張の豪族で、戦国末期に豊臣秀吉に仕えたことでとんとん拍子に出世して阿波の国と淡路の国2国を得ました。秀吉に使えた初代の蜂須賀小六正勝は(太閤記などでは盗賊の親分として日吉丸こと秀吉と矢作橋で出会うことになっていますが)生涯秀吉の側に仕えていたようで、その子である蜂須賀家政が阿波藩の藩祖となっています。
稲田家というのは戦国期この蜂須賀家と同格の盟友だった一族ですが、秀吉の配下に入るにあたり、指揮系統上蜂須賀の下にまわり、そのまま蜂須賀家が国持ちの大名になってからもその家老職に甘んじてきた家でした。そんな稲田家に対し蜂須賀家は、淡路の国1国と阿波国内の美馬郡を領地に与えるという最大の待遇で遇しており、平和な時代はそれでこともなく過ぎていました。
ただ稲田の家来は、蜂須賀の家来と違って、蜂須賀の家来の家来ということで差別を受けていたようで、その不満は蓄積されていたようです。
実際、徳島本藩の家臣は士族とされましたが、稲田氏の家臣は卒族とされた事に稲田氏の家臣は納得できず、自分達の士族編入を徳島本藩に訴えかけた。それが叶わないとなると自分達が士族になるために、洲本を中心に淡路を徳島本藩から分藩独立させて稲田氏を藩主とする稲田藩(洲本藩)の設立を目指すようになり、明治新政府にも独立を働きかけていくようになりました。
このことで稲田側は幕末時の活躍によりすぐ認められると思っていたようです。
こういう状況にさらに火をつけることになったのが明治維新の動乱でした。
幕末維新の動乱期に、時勢を読む眼もなく確固たる藩の姿勢もなかった阿波蜂須賀藩は様子をみて勝ちそうな側につこうとしました。

さて、そんな蜂須賀家にたいして稲田家、また両家に対して当時の政府は
どのような捌きを下すのか、次回のブログをお楽しみに。
それではまた次回のブログでお目にかかります。

淡路島の気になる所(人物)

皆さんこんにちは、歴史関係ブログ担当の長尾です。
今回も淡路島の気になる所(人物)について書かせていただきます。
今回ご紹介する人物は、菅 達長(かん みちなが)という、「淡路国十人衆」の一人です。
「淡路国十人衆」について調べて見と、あまりはっきりした記述が見つかりませんでしたので、今後の課題で調べたいと思います。
では早速、行ってみましょう。

明石海峡大橋.jpg

 達長の本拠地なのですが志知・釜口・岩屋・須本(洲本)などがあるようで、有力なのは岩屋城らしいのですが、1576年に足利嘉昭を擁した毛利輝元の軍勢が淡路島の岩屋城を攻撃したという史実が残っていることから、岩屋城が一番有力かなと勝手に思っています。
 当時、淡路島は毛利と織田の勢力がぶつかる狭間の重要拠点にあっ他のですが結局、守備していた安宅信康は敗れ、城は毛利方に取られ、淡路の国衆の中で達長だけが、毛利方についてしまったそうです。
ただ、そのことで毛利側の武将としてまた岩屋城の城主になったんですが・・・
 しかし、1581年に羽柴秀吉が淡路島に攻め入ってきて、わずか1日で岩や城は落城してしまいます。
この時、淡路の国衆はことごとく滅ぼされてしまうのですが、達長だけは難を逃れたそうです。
 本能寺の変で信長が死んだ後、達長は手勢を率いて千石秀久が居城していた、洲本城を奪うのですが、すぐに奪い返されてしまいます。その後達長は長宗我部家の与力になるんですが、結局1584年秀吉に降伏し秀吉の元で水軍を率い、文禄・慶長の役などに出兵して功を上げました。
 豊臣政権下で伊予国に1万5千石を知行されたり、秀吉の死後遺品の長光の太刀を受領したりしていることから、関が原では西軍につくのですが、所領を没収されてしまいます。
 その後藤堂高虎の侍大将として仕えますが、大阪の陣の際、大阪城の堀を埋めることで高虎と対立し、切腹させられてしまいます。
 しかし、達長が作り上げた水軍の術「菅流」は彼の三男によって代々伝えられて、今でも「菅流水軍要略」などが東京大学の駒場図書館に残されているそうです。
私もwebで閲覧しましたが、何が書いてあるのかまったくわかりませんでした。

それでは今回のブログはこの辺で失礼させていただきます。
また、次回のブログでお目にかかりましょう。
※写真は岩屋から望んだ明石海峡大橋です。

淡路島の気になるところ

皆さんこんにちは。
日曜日ブログ担当の長尾です。
さて、今回の気になるところは東浦にあります、「妙勝寺(みょうしょうじ)」
です。
前から、ものすごく気になって仕方がなかったところなので、行ってみましょう。

妙勝寺 本堂.jpg

妙勝寺は、建武3年(1336年)楠木正成と新田義貞に敗れて京を追われた足利尊氏が、九州に落ちのびる途中に立ち寄った寺です。淡路島沖で風待ちのため船を泊め、山上の燈火を見てその場所を尋ねたところ、そこが妙勝寺と説明された尊氏は、『妙勝』とは軍勝利を得るべき前兆であると喜んで、太刀一振を寄進し必勝を祈願したと言われています。その甲斐あってか、やがて尊氏は室町幕府を開き天下人になったと伝えられていて、寺には尊氏直筆の書状も寄進した太刀も残っています。
 尊氏が船から灯りを見つけたと言われるこの寺は山の中腹にあり、昔のたたずまいを静かに残しています。境内からは東浦の素晴しい眺めを望むことができます。

妙勝寺はこのような伝説が伝えられている尊氏の隠し寺で、他にも歴代淡路藩主が信仰してやまなかった寺でもあります。
「妙に勝つ寺」にあやかって、現在は受験生等が参拝に訪れているようです。

 妙勝寺の境内には江戸初期の 蓬莱 ( ほうらい ) 池泉式 ( ちせんしき ) 庭園 ( ていえん )と呼ばれるスタイルの庭園があり、県指定文化財にもなっています。
淡路島内では最も古い庭園の一つで、規模の大きさと石組みの豪華さは淡路随一といわれています。
また樹齢 600 年と推定される大楠も、妙勝寺の見どころの一つです。

妙勝寺 庭園.jpg

 淡路島に遅い秋が訪れる頃に庭園を眺めると、紅葉したモミジと歴史の重みある庭園が、まるで大きな障壁画のように絵画的な雰囲気を醸し出していて、心が癒される思いがします。

新シリーズ 淡路島のお城とその地方の歴史

皆さんこんにちは。
日曜日ブログ担当の長尾です。今回から新しいシリーズ(というほどではありませんが・・・・・)をスタートさせていただきます。
というわけで、第一回目は私の故郷でもある、「由良と成山城」です。
では、どうぞ。

成ケ島の地図_02.JPG

由良城は由良港の沖に浮かぶ成島の北端に,
慶長18年(1613年)池田忠雄によって築かれた。
江戸時代末期には由良城の石垣の石が南端に築かれた高崎台場に転用された。
慶長15年(1610年)姫路藩主池田輝政の三男池田忠雄が淡路国六万石を与えられ、
父輝政が岩屋城を築いて重臣が淡路を支配していました。
慶長18年(1613年)淡路の支配は池田忠雄に任され、この忠雄が築いたのが由良城で、従来の由良古城の向かいに浮かぶ成山に築城し、築城に際して岩屋城の部材を転用したといわれています。
大坂の陣の後、淡路国は阿波国徳島藩主蜂須賀至鎮に与えられ、蜂須賀氏は城代として稲田氏を淡路に派遣した。
このとき稲田氏は洲本城を居城とし由良城は廃城となった。
この事を由良引け(ゆらびけ)と呼んでいます。
上記には成ケ島のことを、古城の向かいに“浮かぶ”と表記してありますが、実際は当時は新川口と今川口が陸続きになっており、古川口が開いていました。
しかし、台風の際、被害がひどかったため新川口と今川口を開け、古川口を閉じたそうです。
以上が由良城及び、由良の歴史のあらましです。
今回から、このような形で進めさせていただきますのでよろしくお願いいたします。
それでは次回のブログでお目にかかりましょう。

淡路島の民話24

皆さんこんにちは。日曜日ブログ担当の長尾です。
先週掲載出来ませんでしたので、今週2回目の掲載となります。
住みません m(_ _)m

と言うことで24話目の淡路島の民話ですが、今回は「細川のおやっさん」という漁師のおじさんの話です。

細川のおやっさん.JPG

細川のおやっさん
(旧北淡町の民話)

「ようこそ、お泊まりはこちらへ。お湯になさいますか、それともお食事を先に・・・」
「うーん、先ずひとっ風呂浴びてそれから一杯きゅ〜っといこか」
新村の金比羅さんのお祭りで魚を売り尽くし、ほくほく顔での帰り道。
かべっとの坂から見える賑やかな明かりに誘われて、ふらふらと温泉宿までやってきた漁師さん。
綺麗な仲居さんに声を掛けられ有頂天になって、手ぬぐいを頭に湯殿の戸を開けると、湯の香りが漂い、脇には徳利も並んでいます。
きゅ〜っと一杯ひっかけて、ざぶんと湯船に飛び込んで飲めや歌えや上機嫌。
「さても見事な淡路島
 浮いた島なら流れもするが
 根から生えたか流りゃせん、こりゃ。」と、とうとう、ふらふらと踊り出しました。
あんまりはしゃぎすぎて、頭をごつんとぶつけて、
「おっ、痛い。ぶるぶる寒くなってきたぞ」と、そのときピシャリと平手が飛んできました。
お百姓さんは「てめえ、何を寝ぼけて肥だめにいるんだ」
それでも漁師さんは「まあ、まあ、一杯やれや」と上機嫌。
お百姓さんは「細川のおやっさんにやられたな、引きずりあげて頭から水を掛けろ。臭い、臭い。」と、もうてんやわんやの大騒ぎです。
遠くでこれを覗いていた細川のおやっさん狸、ぺろりと舌を出して「一寸、悪戯が過ぎたかな」と言いながら、山に帰っていきました。

というお話でした。
いくら気分が良くても狸や狐にはバカされることの無いように、気を引き締めときなさいという教えですかね。
私も気をつけます。

それでは又、次回のブログでお目にかかりましょう。
See you on next blog!
Bye-Bye!!

淡路島の民話23

皆さんこんにちは。日曜日ブログ担当の長尾です。
今回淡路島の民話の23回目は、「最後の一手」という碁のお話です。
それから、先週の日曜日アップ出来ていなかったので、今回2週分アップさせて頂きます。

最後の一手.JPG

淡路島の民話23「最後の一手」
(旧津名町の民話)

「そりゃあかん。それじゃ石が死んでしまう。」
つい大声で叫んでしまったものですから、茶店の中で碁を打っていたご隠居がかんかんになってすっ飛んできました。
「そんな薄汚いなりをした田舎者に碁の打ち方が分かるものか。」
碁打ちでは淡路一。持ち前の強気で皆を負かし、残るは白い顎髭を長く垂らしたご隠居。
田舎者は「どうせすぐに参るだろう」と油断して一石打って「これはしまった」一方ご隠居はにやにやして笑いながら「さあどうだ。この手で生き返ってわしに勝てたら、ここにある金五両あんたに進ぜよう」と言っています。
田舎者は「ちょっと失礼、用足しに」慌てて厠に逃げ出して、うんうんうなっては「ああ飯が食いたい」と呟くと、そのとたん奇跡の様な一手を思いつきました。
飛んで返して石を取りご隠居の陣地に一手打つとご隠居は急に慌て出しました。
五手、十手と進む中、とうとう兜を脱いでしまいました。
ご隠居は「この十両は差し上げます」田舎者は「おおきにもらってかえります」と、嬉しそうにさっさと五両をしまい込み、東海道を下って帰りました。

というお話でしたが、思わぬところで思わぬ妙案が思い浮かぶ者ですね。

淡路島の民話15

皆さんこんにちは。
日曜日ブログ担当の長尾です。
今回は淡路島の民話の15回目で「廻り弁財天」というお話です。
解説無しに早速どうぞ。

回り弁財天
(旧津名町の民話)

廻り弁財天

おじか鳴くこの山里
嵯峨(サガ)の辺りの秋の頃
佐野朝霧山(サノアサギリヤマ)の麓、一軒の東屋から夜の静けさを震わせながら、琵琶の音が流れてきます。
暗闇の中で平家物語を朗々と演じているのは、盲目の城喜代(ジョウキョ)です。
「あっ、弁天様」城喜代は思わず呟きました。
弁天様は優しくこう語りかけました。
「おまえの弾く音色は実に素晴らしい。おまえの住む淡路島に渡りたくなった」
同じ頃、高野山では城喜代の伯父、旭昌法印(キョクショウホウイン)の夢枕に弁天様が現れてこう言いました「おまえの甥の城喜代に私のこの軸をあげてくれ。私は今から淡路に行きます。」
法印がすぐに本堂に走っていきますと、軸の中にはいつも通りに弁天様が居られます。
早速使いが送られ、城喜代が高野山に参りました。
「私は目が見えない上に仏様を拝みもせずに暮らしてきました」と言うと旭昌法印が
「それならこれから一心にお祈りなさい」と城喜代に言いました。
軸を淡路に持って帰った城喜代はお堂を建てて、朝な夕なに弁天様にお祈りをしていました。すると不思議なことに少しづつ目が見えるようになってきました。
噂を聞いた村人達もお参りに集まり、やがて淡路の真言宗の寺々でこの軸の弁天様を廻してお祭りすると言うことになりました。
これが回り弁天です。

何でも一生懸命にやってると、どんなことでも神様は見ていてくれるという事ですね。
一瞬たりとも気が抜けませんね。
今年は神様に認めてもらえるよう頑張ります。